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河井継之助について

河井継之助の生涯と幕末時勢

文政10年(1827年)1月1日
継之助、長岡城下に生まれる
嘉永5年(1852年)秋
江戸に遊学。佐久間象山に学ぶ
翌年、浦賀に黒船来航
安政6年(1859年)
継之助、再び江戸、備中松山、長崎へ遊学
山田方谷らの教えを請う
安政7年(1860年)3月3日
桜田門外の変。
尊王攘夷の気運が高まる
慶応元年(1865年)
継之助、郡奉行に就任。藩政改革に着手
慶応2年(1866年)1月21日
坂本龍馬の仲介により、薩長同盟締結
慶応3年(1867年)10月14日
徳川慶喜、大政奉還を上奏
12月9日
王政復古の大号令
慶応4年(1868年)1月3日
鳥羽・伏見の戦い
近代武装の西軍を前に東軍は大敗
長岡藩、ガトリング砲など近代兵器を備えていく
4月11日
江戸城無血開城。慶喜は水戸藩にて謹慎
5月2日
継之助と西軍の談判が決裂
のちに、北越戦争開戦
7月25日
継之助負傷
8月16日
継之助、敗走途中の会津塩沢で没。享年42
8月中旬
越後全域が西軍の支配下となる
8月23日
西軍が会津若松城下に突入
明治元年(1868年)9月22日
会津藩降伏。翌23日、長岡藩降伏
10月21日
榎本武揚率いる東軍の軍艦が
蝦夷地に上陸(箱館戦争)
明治2年(1869年)5月18日
五稜郭開城。東軍が投降し、
箱館戦争及び戊辰戦争が終結

※日付は旧暦。カッコ内は新暦表記。
※開戦時期には諸説あります。

今こそ知っておきたい
長岡藩のリーダー“河井継之助”の魅力。

北越の小藩、長岡が生んだ切れ者

日本史のなかでも人気が高い「幕末」という時代。坂本龍馬、西郷隆盛、新選組の土方歳三など、綺羅星のようなヒーローがあらわれたことも、注目される理由のひとつだろう。

河井継之助もその一人である。

徳川慶喜が大政奉還した後、世の流れは薩摩・長州が「明治新政府」を樹立し、一気に倒幕へと進む。新政府に恭順して倒幕派につくか、それとも旧幕府派(佐幕)につくか。

決断が迫られ、日本が二分されるなか、長岡藩の家老、河井継之助は武装中立の姿勢を貫こうとした。「非戦」を保ち、長岡をさらに発展させたい、そう夢見た男だった―。

彼はどんな「理想」を掲げ、何をめざしていたのか。その足跡をたどってみよう。

継之助は、文政10年(1827)1月1日、越後長岡(現・新潟県長岡市)の城下町に生まれた。父の代右衛門は藩の中級武士にして教育者。その父の影響から学問に熱中し、非常に意思の強い若者に育った。

江戸へ留学中の26歳のとき、ペリーの「黒船」を見た。「品川に二艘の異船あり。いずれも城のごときありさま」と、自身の旅日記(『塵壺』)に記したとおり、容易ならぬ事態と肌で感じたようだ。

継之助は、すぐさま幕府老中でもあった藩主・牧野忠雅に危機脱却のため、藩政・財政改革の必要性を建言。これが藩主の心をとらえ「評定方随役」に任じられるなど藩内で一目おかれるようになる。

あるとき継之助は藩主の子(牧野忠恭)に、学問の講義を行うよう藩命を受けた。しかし「私は講釈するために学問をするのではない。講釈なら講釈師に頼むがよい」と断って「御叱り」の罪を受けている。

「学問とは、その知識を披露するものではない。行動をもって、その人が得たものを見てもらうことが肝要」というのが継之助の信条だった。彼は藩のトップや上役に対しても、それを曲げなかったのだ。

その後、継之助は二度の江戸留学や長崎までの遊学の旅で見聞を広め、出世を重ねた。

42歳になった慶応4年(1868)には家老上席になった。風雲急を告げる情勢に、藩も継之助の「生きた学問、生きた知識」を必要とし、スピード出世させたのである。

継之助は「民は国の本、役人は民の雇い」という信念のもと、藩政改革に尽くした。同い年の藩医・小山良運らとともに、みずから藩主に建言した政策を実行。慣習化した賄賂や賭博の禁止、また川の通行税も廃止、寄場の新設などで藩の財政を好転させた。

なぜ、継之助は戦ったのか

継之助の藩政改革も半ばの慶応4年(1868)4月、戊辰戦争がはじまる。

江戸城をはじめ、関東一帯を占領した新政府軍は、その矛先を東北へ向けた。新政府の狙いは、幕末の京都で「佐幕派」のリーダーをつとめた会津藩だった。朝廷を抱き込んだ新政府は、会津藩を「朝敵」と定め、討伐をめざした。そして諸藩に対し、会津討伐のための出兵と献金を求めたのだ。一方的な新政府軍のやり方に納得いかない仙台や米沢などの東北・北越諸藩は、新政府軍の要求をはね付け「奥羽越列藩同盟」を結成、対抗する。

さて継之助は、長岡藩は、どうしたか。新政府軍には加勢しない、同盟軍にも味方しない。「武装中立」を表明したのである。

継之助は藩内の兵学所にフランス式兵制を取り入れ、洋式ライフル「ミニエー銃」を採用していた。横浜にいた外国人貿易商から手動機関銃「ガトリング砲」を購入した。本作の劇中でも継之助自身が、この砲を掃射する場面がある。このように長岡藩は7万4000石の小藩ながら、国内有数の軍備を持つ藩となっていた。それもこれも中立を保つため、外圧を振り払う「自衛」の軍備だった。

だが、時勢はそれを許そうとしなかった。会津への出兵に応じず、武装する長岡藩を新政府軍は「敵」とみなしたのだ。新政府軍の一隊は榎峠を越えて小千谷まで兵を進めた。継之助は何としても開戦を避けたいと、和平実現のための知恵をめぐらせていた。

直談判しかない―。5月2日、新政府軍が本営を敷く小千谷の慈眼寺へ、継之助は2名の供を連れただけで乗り込む。

面会した新政府軍の軍監は、土佐藩出身の岩村精一郎。24歳の若者だった。継之助は「戦争は双方に不利益。諸藩が団結して新しい国づくりに邁進すべき」と説く。また会津藩などの諸藩にも和平を提案するため、猶予が欲しいと懸命に主張した。だが不幸にも、血気盛んな岩村は武力衝突での解決しか頭になく、継之助の言葉を聴こうとしなかった。岩村は晩年の回顧録で「河井の経歴・人物を知らなかったため、時間稼ぎをしているだけだと思った」とふり返っている。

継之助が長岡の、ひいては北日本の命運を託した「小千谷会談」は決裂した。非戦中立の夢も敗れた。

もはや戦は避けられない―。

こうなった以上は、故郷と自身の正義をかけて戦う。それこそが後に述べる武士の心得のあらわれであった。

長岡藩は「奥羽越列藩同盟」に与し、新政府軍との戦いに突入。戊辰戦争最大の激戦地となった「北越戦争」のはじまりである。

継之助が「武装中立」をめざして備えた軍備のおかげもあり、長岡藩は新政府軍を苦しめた。7月24日には、奪われた長岡城を一度は奪還する快挙も成しとげた。

戦闘中、継之助は銃弾を足に受けて倒れた。総指揮官である継之助の戦線離脱で、戦局はさらに悪化。長岡城も4日後にまた奪われてしまう。8月中旬には越後全土が新政府軍の手に落ち、北越戦争は終わった。

だが新政府軍としてはこれだけの苦戦を強いられたのは構想外で、誇れる勝利ではなかった。小藩の長岡を3ヵ月も持ちこたえさせ、戦火のなかに散った河井継之助。彼が「最後のサムライ」と称されるゆえんであろう。

越後長岡藩とは、どんな藩だったのか?

現在の新潟県長岡市にあった「越後長岡藩」は、徳川家康に古くから従っていた譜代大名・牧野家が、250年ほど代々の藩主をつとめていた。牧野家のような譜代大名は、周辺の外様大名(江戸時代以降より、新たに徳川幕府に従った大名。薩摩や長州、土佐も外様)に睨みをきかせる役割を与えられていた。

この牧野家の家訓に、次のようなものがあった。本作でも継之助が口にする「常在戦場」や「武士の義理、士の一分」などだ。これが藩士にまで浸透し、継之助はじめ、長岡人の剛健な気風につながっていた。圧倒的劣勢のなかで新政府軍に立ち向かったのは、こうした点も理由といえよう。

北越戦争で継之助が重傷を負ったさい、松蔵とともに、その傍に従っていたのが外山寅太(脩造)だ。外山は「戦争が終ったら商人になれ」と、臨終まぎわの継之助に諭され、戦後はその通り実業家になった。大蔵省に勤め、日本銀行初代大阪支店長に就任。現在の阪神電鉄の初代社長となり、アサヒビールの創設に尽力するなど関西経済界の重鎮となった。越後人である彼の心のなかには、常に師・継之助の存在があったという。

継之助とともに北越戦争を大隊長として戦った山本帯刀は、新政府軍に捕らわれるも、「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」と述べ処刑された。山本家は断絶とされたが、明治16年に再興を許され、元・長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が山本家へ養子に入った。彼がのちの日本海軍の連合艦隊司令長官となる山本五十六である。

継之助の同志であった小山良運の子、小山正太郎は明治維新後に洋画家として名を馳せ、東京高等師範学校の教員となった。ほかにも「米百俵」の逸話で知られる小林虎三郎、北海道開拓に従事した川島億次郎(三島億二郎)など、継之助と関わった人物には、近代日本の発展に貢献した逸材が多い。

継之助は戊辰戦争に散ったが、彼が大切にした武士の気風は今も多くの日本人に尊ばれ、その心に根付いているのである。

文/上永 哲矢(歴史随筆家)

戊辰戦争

旧幕府軍(東軍)と明治新政府軍(西軍)の戦争。慶応4年(1868年)1月3日から、翌年の明治2年5月18日まで、1年半近く続いた。長岡での北越戦争もその一環だった。

慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜は大政奉還し、天皇に政権を返上。徳川幕府は終焉を迎えた。しかし、薩長(薩摩藩・長州藩)勢力は徳川家の権力を完全消滅させるため「王政復古の大号令」を発布。明治新政府の樹立を宣言した。大義名分を失った慶喜は京都を離れ、大坂に退去を余儀なくされる。政権の掌握に成功した新政府軍は、江戸で騒乱を起こして旧幕府方を挑発。「鳥羽・伏見の戦い」を引き起こす。
薩長が徳川幕府の息の根を止めるため、
武力討幕を実現させるために起こした「戊辰戦争」の始まりだった。
薩長軍は天皇家の菊紋が入った「錦旗」を掲げたため官軍となり、
一方の旧幕府軍は図らずも賊軍とされたことで士気が上がらず、
敗北を続ける。
京・大坂にはじまり、江戸無血開城を経て、
戦場は上野・宇都宮から東北へ。
長岡・会津・仙台、そして箱館へと続くが、
五稜郭の陥落をもって終結。
旧幕府軍は敗れ、武士の世は終わった。